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ハインリヒ6世(Heinrich VI、1165年11月 - 1197年9月28日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1191年 - 1197年)、シチリア王(在位:1194年 - 1197年)。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの子。 == 生涯 == === 神聖ローマ皇帝即位前 === 1165年にナイメーヘンで、フリードリヒ1世とベアトリクスの次子として生まれる。1169年6月、4歳のハインリヒはバンベルクでドイツ国王(ローマ王)に戴冠された。1184年5月20日の聖霊降臨節の日にマインツで開かれた帝国集会で、シュヴァーベン公フリードリヒとともに騎士に叙された。この集会の参加者には贈物が与えられ、同時に騎士たちのトーナメントが開かれる華々しいものだった〔西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、243頁〕。 1184年10月、ハインリヒとシチリア王女コンスタンツェ〔コンスタンツェは、シチリア王国ノルマン朝の創始者ルッジェーロ2世の娘にあたる。1184年当時のシチリア王グリエルモ2世は、コンスタンツェの甥。〕の結婚が成立する。過去には、1173年ごろにフリードリヒ1世の娘ベアトリーチェとシチリア王グリエルモ2世の婚姻が提案され、ハインリヒとコンスタンツェの縁談は1180年ごろから進められていた〔。1186年1月にハインリヒは自分よりも10歳年上のコンスタンツェと結婚、かつて反皇帝派都市の筆頭格だったミラノのサンタンブロージョ教会で挙式した〔〔小森谷『シチリア歴史紀行』、158頁〕。この婚姻によって教皇領を挟む南北の二大国が同盟を結ぶことになり、ローマ教会にとって危機的な状況となる〔。 1189年6月10日にフリードリヒが第3回十字軍の途上で没するとハインリヒは父の跡を継ぎ、同年11月18日にグリエルモ2世が没する。 1184年の婚姻時の取り決めでは、グリエルモ2世没後に王国の統治権はコンスタンツェとハインリヒに継承されることになっていた〔西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247頁〕。しかし、コンスタンツェの縁組を推進したパレルモ大司教グアルティエーロがグリエルモ2世に続いて没し〔小森谷『シチリア歴史紀行』、154,158頁〕、1189年12月に反ドイツ派の廷臣によってレッチェ伯タンクレーディがシチリア王に擁立された。ハインリヒはシチリアに向かおうとするが、ザクセン・バイエルンの君主ハインリヒ獅子公が亡命先のイングランドから帰国したため、ハインリヒ獅子公への対処に追われてシチリアへの進軍を阻まれる〔西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、247-248頁〕。1191年1月になってようやく、ハインリヒはイタリアに向かうことができた〔西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、248頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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